三浦按針(ウィリアム・アダムズ)400周忌


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2020年5月16日は三浦按針(英国名ウィリアム・アダムズ William Adams)が元和6年4月24日(ユリウス暦1620年5月16日、グレゴリオ暦1620年5月26日)に平戸で没して400周年にあたる。
墓地は定かでないが、1954(昭和29)年、平戸に三浦按針の墓を建立した。
平戸市は英国大使館をはじめゆかりの自治体など関係機関と連携し記念イベントの開催を予定していたが新型コロナウイルス感染の影響で延期している。


ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564年9月24日 - 1620年5月16日(元和6年4月24日))は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

日本漂着、家康の引見

1705年にオランダ・ライデンの地図出版者が作成した日本の地図、右下に将軍謁見図
関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。

結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

三浦按針となる

アダムスが平戸からロンドンの東インド会社本社へ宛てた手紙の一部。1613年12月1日付け(大英図書館蔵)。
江戸でのアダムスは帰国を願い出たが、叶うことはなかった。代わりに家康は米や俸給を与えて慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。

やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年(慶長12年)には120tの船舶を完成させる。

この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず相模国逸見に采地も与えた。また、三浦按針("按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ)の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

1613年(慶長18年)にイギリス東インド会社のクローブ号が交易を求めて日本に来航した際、一行に付き添い、家康らとの謁見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけるなどの手助けをした。1614年(慶長19年)のクローブ号帰還の際には、一緒に帰国できる許可が日英両方から出たが、同船司令官のジョン・セーリスと馬が合わず、帰国を見送った。セーリスは何事も日本式を強要するアダムズが気に入らず、アダムズはセーリスを生意気で無礼な青二才として嫌っていた。一行が去ったあとは、それまで手伝っていたオランダ商館より安い賃金だったが、母国イギリス商館の仕事を手伝った。

家康の死後

家康に信頼された按針だったが、1616年(元和2年)4月に家康が死去し、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府の幕臣たちの方針で貿易を平戸のみに制限し鎖国体制を敷いたため、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官のみとなり、幕臣や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、1620年5月16日(元和6年4月24日)[#注1]に平戸で死去した。(享年55歳)

Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%B9

#注1:Wikipediaには1620年5月16日とあるがユリウス暦であり、グレゴリオ暦では1620年5月26日である。
#注2:グレゴリオ暦は、ローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の改良を命じ、1582年10月15日(グレゴリオ暦)から行用されている暦法である。






三浦按針の墓



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三浦按針の墓
 三浦按針(ウィリアム・アダムズ)は、初めて日本に来たイギリス人で、1600(慶長5)年オランダ船デ・リーフデ号の航海長として豊後(大分)に漂着した。その後徳川家康は、彼を外交顧問として今の神奈川県横須賀市に住まわせ、250石を与え召し抱えた。
 慶長年間、オランダ、イギリスが通称を許され平戸に商館を設置するようになったのは、按針の力によるところが大であったといわれる。後に平戸イギリス商館長コックスのもとに活躍し、1620(元和6)年平戸で病死した。
 墓地は定かでないが、1954(昭和29)年三浦按針の墓を建立した。夫婦塚は、1964(昭和39)年生誕400年にあたり、イギリスの妻の墓地より婦人の霊魂の象徴として小石を取り寄せ、アダムズの墓に合葬し夫婦塚としたものである。
   平戸市






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